|
動詞の漢字表記についての研究は、昭和30年以後に本格的に行われ始めたといってよく、他の分野の研究より遅れている状態である。特に、品詞別による表記の史的変遷の視点からの研究は、昭和30年以前はほとんど見られない。本論では、古代で使っている動詞と、現代で使っている動詞の漢字表記の違いを明らかにし、動詞の漢字表記の変遷の過程を捉え、更に、表記の変遷の要因についても考察した。
第1章 漢字表記の史的研究の意義と先行研究
漢字の伝来は、前1世紀ごろ日本に伝わってきた。その後、貿易・政治などの交流につれ、遅くても1世紀になると、日本では、一部の日本人も漢字が読めたと推測される。2世紀から4世紀の間にかけて、日本人の間で漢字に対する理解が徐々に広まったと考えられる。5世紀になると、漢字を使って日本語を表記しようとする試みが見られる一方、漢字が既に一部の人に理解されていた。6世紀になると、漢字の訓を利用し日本語が表記されるようになった。更に、7世紀になって、中国語にない助詞・助動詞も漢字で表記されるようになり、変体漢文、宣命書なども使われ始めた。
慶応2年(1866年)に前島密の提出した「漢字御廃止之儀」は、明治政府に採用されなかったが、福沢諭吉から漢字節減論が出された。漢字制限という政策をきっかけにして、漢字に対する国民の関心が集まり、漢字を使った国語表記の研究も芽生えてくる。表記研究は、昭和30年代以後盛んになり、数多くの論、著書が出された。先行研究において、古代から現代に至るまで、語の漢字表記について、1語多漢字表記が1種の漢字表記に固定する傾向が見られることが明らかにされている。しかし、日本語表記研究は、研究の歴史が、他の日本語研究の分野に比べて比較的遅く始まったこともあり、その歴史的研究は、まだ明らかにされていないことが多い。
第2章 『今昔物語集』における動詞の漢字表記の研究
『今昔物語集』と「常用漢字表」と一致する動詞の漢字表記は、その殆どが、『色葉字類抄』における第1掲出漢字かあるいは合点がついている漢字である。『今昔物語集』と、「常用漢字表」と一致しない動詞の漢字表記について、現在使用されていない動詞の漢字表記は、『色葉字類抄』が編纂された当時でもあまり使用されていなかった語である。一方、「常用漢字表」に載っていないが、現在でも使用されている動詞の場合、『色葉字類抄』が編纂された当時の常用漢字が使用されている。『今昔物語集』と「常用漢字表」が異なる動詞の漢字表記について、『今昔物語集』が編集された当時、既に表記が変化しており、使用されなくなっている可能性がある一方、混乱し使用し続けられている可能性もある。『今昔物語集』と「常用漢字表」と一部一致している動詞の漢字表記について、『今昔物語集』で使用数が1位である漢字表記と、「常用漢字表」の動詞の漢字表記と一致する場合、その漢字表記は、『色葉字類抄』においても殆ど合点がつき、第1掲出漢字である。
第3章 動詞の漢字表記についての個別的研究
「アワツ」は、『今昔物語集』では「遽・澆・急・周・周章」の5種の漢字が当てられているが、「澆」「周」は、節用集などの各辞書や『今昔物語集』以後の作品に見出せなかった。「慌」が使われ始めたのは、江戸時代に入ってからで、特に読本に多く使用される。一方、「周章」も明治時代の作品に認められるものの、その使用数は減少する傾向が見られる。明治時代に「アワツ」の表記は、徐々に「慌」へと移行していったものと見られる。「アワツ」の意味は、古来から現代に至るまで、「突然起きたことに対して驚き、冷静さを失う」で、変化は認められない。意味によって、漢字の使い分けも存した。
『今昔物語集』で、サ変動詞は「為」で表記される例が多いが、連用形については、「仕」で表記されたかどうか疑問が残る箇所が存している。『沙石集』で、漢語サ変動詞連用形に「仕」を使った例があり、漢語サ変動詞連用形を「仕」で表記することが、鎌倉時代に既に存していたことが分かった。南北朝時代の『良基連歌論集』には、仕」が複合語の前接語「シ」の漢字表記として使われた例がある。室町時代後期の『曽我物語』では、サ変動詞連用形だけでなく、他の活用形にも「仕」が使用されていた。
「ハイル」は、『今昔物語集』では、「ハイル」の語はなく、「ハヒイル」(這入)であった。かな表記「はひいる」「はいいる」などの様々の表記から次第に「はいる」になったが、漢字と共に「はひ入る」を使うこともあり、意味としては、「這いながら入る」から、「堂々と入る」「仲間に入る」に至るまで、広く使用されるようになってきた。主語も最初の人・動物から次第に物へと及んだ。特に「ハイル」は移動動作を表す動詞から状態を表す動詞へと変化したことは中古から中世、近世への大きな変化であった。
以上の検討を通して、中世の動詞の漢字表記が、現代の動詞の漢字表記へと繋がっていくことが分かった。古代で固定されていない動詞の漢字表記が、語の意味の変化につれ、漢字表記が違ってくる動詞もあるし、近世になって、読本の影響で新たな漢字表記が使用され始めた動詞もあることを明らかにした。
|