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19世紀から20世紀初頭のアメリカやヨーロッパの文化を、 Henry Jamesは、アメリカ人としてまたヨーロッパ在住者としてじっと見つめていた。彼はアメリカを離れ、その生涯の大部分をヨーロッパで送ったが、彼は当時のヨーロッパやアメリカの文化をいわば文化的外部者として鋭い感受性を持って観察し、彼が抱いた意識をその作品中の人物達の思想や行動、心理描写の中に反映させていったと考えられる。したがってその登場人物たちが異文化の中で葛藤しつつ見出していく価値観は深い洞察に満ち、グローバリゼーションが進展していく今日の国際社会においても、さまざまな示唆を投げかけてくれる。
本論文は、そのことを念頭におきながら、序章においては、人間の心理を緻密に描写しながらも常に国際的テーマを追究したHenry Jamesの人生について述べた後、論文全体を通してしばしば用いられる、
「文化的外部者」という言葉の定義を試みる。それは、後で詳しく述べるように、ある文化圏の中で生きながら、その中で疎外感を抱き、その文化を外側から客観的に見つめようとする文化的視点を持つ人物のことである。このような人物をJamesはさまざまな姿で作中に登場させるが、彼らは、James自身が文化的外部者として感じたアメリカとヨーロッパの文化の差や、彼の世界観を反映していると言ってよい。それは、 19世紀の終わりから20世紀の入り口の時代における一個人の異文化体験の記録と考えることもできよう。しかしこの論文の主要な部分では彼の作品に現れた文化観を扱い、それを過去のものとしてではなく現代性を持つものとして考察したい。そこで、
Jamesの作品において、さまざまな「境界」に立ち、その中で葛藤しながら独自のアイデンティティーを見出していく人物達の成長過程に一貫して焦点を当てることにしたい。そのことによって彼らが文化的外部者として抱えた問題は、
世界の中でどのように異文化共存の価値を見出していくのかという現代的意義を持ったテーマにつながっていくことを浮き彫りにできればと思っている。
第一章ではRoderick Hudson (1875)を取り上げる。主人公のRoderickはアメリカとヨーロッパ、絵画と彫刻の狭間で自らのアイデンティティーを追求する。ヨーロッパ社会の中で、高まるばかりの理想を求め、苦悩の未に命を落とすことになるRoderickの人生については、先行研究においては、ヨーロッパ世界の誘惑や権威に押しつぶされてしまったものとして議論されがちであった。例えば0scar Cargillは“Taking him to Europe merely brought
him into relation with a catalytic agent,Christina Light,who merely hastened an inevitable ruin” (Cargill 28)と述べる。しかしこの章ではRoderickの人生はむしろ、ヨーロッパ芸術の権威の前に萎縮することなく、自立へと向かうアメリカ芸術の萌芽を示唆するという解釈を提示したい。その際に、ルネサンスの芸術観における「消失点」という概念がもつ象徴的な意味が、
Roderickの人生といかに関わるかという点に注目する。
「消失点」の存在意義は、その芸術作品が不完全であることを許容するとともに、人間の技術によって表現し切れない芸術の 可能性を示唆してくれることである。 Roderickの死は、多くの芸術的なアイデアを抱えたまま人生を閉じた、彼の人生という芸術における「消失点」の役割を果たすこととなり、彼の人生そのものがヨーロッパ芸術に学びながらも独自の領域を切り開く、アメリカ芸術の自立の一段階を体現していくことを考察していく。
第二章ではThe American (1877)について論じる。ここに登場する、ヨーロッパ貴族Bellegarde家の娘であるClaireは、異文化と因習の狭間で苦悩する人物と言える。この章では彼女の人生選択に焦点を当てる。先行研究においては、
Claireはことごとく自主性に乏しい人物であると解釈されてきた。例えばS.Gorley Putt は
Claireを“a pale uninteresting character”(Putt 114)として片付け、またR.W.Butterfieldは彼女を“passive,timorous,and helpless enough to be a victim of her
destructive society”(Butterfield 91)と考える。しかしこの章では彼女の性格に潜む多面性を検証しつつ、国際的テーマを扱うJamesの作品群において、彼女がより複雑な内面性や役割を発揮していく人物像の萌芽を備えた人物であることを明らかにしていく。新世界と旧世界の価値観の違いを全面的に押し出したJamesの初期の作品の一つであるこの作品において、 Claireの多面性は、文化や価値観の狭間で自らのアイデンティティ−を苦悩しつつ追及する人物の抱える問題の全貌をすでに体現しているといえる。
第三章ではWhat Maisie Knew (1897)を取り上げる。 Maisieは保護者を装う多くの大人に囲まれていながら、彼らの身勝手な都合に振り回されないために、自立した価値観を自ら身に付ける必要に迫られる。従来Maisieは、例えばThe Portrait of a Lady (1881)のIsabel Archerのように、試練により内面的に成長する主人公の一人として論じられる場合が多い。例えばJean Frantz Blackallは“she...becomes the childish prototype of all those F.W.Duppe has described as James’s greater figures,’ in whom conscience is a form of
sensibility... The price of
her knowledge is that she has spiritually accepted the burden of
responsibility for her own fate''(Blackall 99)とMaisieの成長について論じている。だがこの章ではこういった従来の観点に加えて、大人達の行動をコントロ-ルするMaisieと彼女に教育されていく大人達という力関係の存在に注目する。彼女は大人達の「文化」に対する文化的外部者として大人達をコントロ-ルする支配力を持っていく。彼女が大人達に対してどのような影響を及ぼし、何を「知った」のかということを考察することで、 Maisieの立場と重なる「文化的外部者」としてのJamesの価値観が浮かび上がってくると考えられる。孤独だが自由な立場に立つMaisie影響力によって、古い脆弱な価値観や矛盾の刷新と、文化の進歩に寄与し得る「文化的外部者」の持つ力の可能性が示唆されることを明らかにする。
第四章ではThe Spoils of Poynton (1897)における人物達の間のコミュニケーションを考察する。人々の利害の間に立たされるFledaは、先行研究においては例えばMillicent Bellも指摘するように、道徳性にこだわり、引っ込み思案な女性としてしばしば解釈されてきたが、この章ではFledaが他者に対して積極的な支配力を発揮している様子に注目する。 Fledaは、彼女を自分の理想的な理解者にしようとするMrs.Gerethの思惑通りに行動せず、むしろMrs.Gerethが演出する芸術や人間関係の価値を破壊する役割を担う。彼女の行為は、利害に左右されることのない純粋で絆の強い、人間のコミュニケーションを築こうとするものであり、「透明な眼球」で物事を見ようとするアメリカ的な理想を想起させるものでもある。芸術の価値が人間の利害によって左右されることへの疑念の中で揺れ動くFledaの心理を通して、従来消極的な人物と解釈されがちであった彼女が、人間の絆の危機やヨーロッパ芸術の価値を救う、アメリカ的な精神を体現する人物であることを明らかにしていく。
第五章ではThe Bostonians (1886)を取り上げる。この作品の登場人物がいずれもさまざまな事柄に対して「嫉妬」する点に注目する。この作品の登場人物達の感情については、先行研究では、ボストンの女権運動家であるOlive Chancellorが、演説の才能を持つ同志Verena Tarrantに対して抱く独占欲を伴う感情がレズビアン的な感情であるとして、異性愛や同性愛の観点から論じられることが多かった。例えばWendy GrahamはOliveを“The morbid old maid of The Bostonians is mentally
ill, not just politely
depressed ; she is militant, not resigned ; she is a lesbian, not a discarded
virgin” (Graham 150)と述べる。だがこの章では、嫉妬という感情が恋愛においてだけではなく、社会における競争意識や名誉心、劣等意識などによって刺激される感情であることを提示する。嫉妬の感情が向かう先を読み解くことで、人々の羨望の対象となった資質や当時の社会的関心事も見えてくる。そのような人々の中で唯一嫉妬の感情から免れていたVerenaは、社会における自由と所属性の狭間で揺れ動きはするものの、どんな社会階級にも属さない少女であった。だが最終的に彼女がアメリカ社会の中で所属性を持つことにより、彼女が「嫉妬」するアメリカ女性へと「成長」していくことと、アメリカ社会における彼女のアイデンティティーの発見が示唆されると考えられる。この作品における登場人物達が、自分には閉ざされた社会に対する嫉妬の感情を、自分の属性に対するプライドと強い自己主張の力へと変えることのできるアメリカ人へと変身していく様子を考察していく。
第六章では“The Pupil” (1891)について論じる。Jamesの作品にはしばしば子供でありながら「子供らしく」生きることが出来ない子供の姿が
描かれると言える。この章では自己に存在する過去の自分の能力を示す「インナーチャイルド」という人間の潜在意識に注目することにより、「子供らしく」 生きることが叶わない少年Morganと、その家庭教師Pembertonの意義を考察する。登場人物達の感性を、「子供は大人の父たる存在である」ものとしてとらえると、
Morganの感性はPembertonのインナーチャイルドとして彼を教え諭す役割を果たす。そして年齢的に子供と大人の中間にあると思われるPembertonもまた、彼よりも「大人」の視点に対してある種の示唆を投げかけるインナーチャイルドの声を体現していると考えられる。この作品においては、「保護者」を持たない、
「大人」と「子供」の世界の「外部者」となった子供の生命力が先鋭化される。同時に、かつて備えていた強い感受性を失った「大人」が抱える脆弱さが浮き彫りにされる様子を考察していく。
第七章では“The Bench of DesoIation” (1910)を取り上げる。この作品では誤解によって傷つけ合ったかつての恋人DoddとKateは十二年もの理不尽な苦悩を経た末に、和解し、相互に理解し合うという波乱に富んだ経験をたどる。先行研究においては、誤解を解こうともせず家族まで理不尽な苦難に巻き込むDoddの生き方やKateの行為は現実性が欠けるものとしばしば指摘されてきた。例えばEdward Wagenknechtは“We are asked to swallow the greatest
number of improbabilities”と指摘する。だが二人の苦しみの期間は彼らの成長のために必要な時間であったのであり、人生の浪費とは言えないと考えられる。この章では従来蓋然性の欠如について論じられがちであった二人の行動の意味について、愛情と理不尽さの狭間を揺れ動く人間の「恐怖」心に注目することにより明らかにしていく。Jamesの文学における「恐怖」体験の一つの肯定的な意義とは、人物達が自らの中に眠る資質を新たに認識することにより、それまで理解することの出来なかった他者の価値観をも受け入れることのできる感性を養うことにあると考えられる。長い試練の期間と理不尽な恐怖を乗り越えて、相互に理解する力を備えていく人物達の成長の様子を考察する。
第八章ではThe Ambassadors (1903)について論じる。この作品の中でアメリカからヨーロッパに来たStretherが感じ取る時間のイメージは他者性を持ち、まるで物体であるかのように描かれていることが散見される。このような時間のとらえ方については、例えばAlbert Dunnも指摘するように、従来、常に傍観者的な立場から人生そのものも眺めようとするJamesの視点が重なるものとして議論されてきた。しかしこの章では、時間とは元来、人間の主観の働きによって捉えられるものであり、それゆえ時間と人間の存在の意味は決して切り離して考えられるものではないものとして考察していく。するとStretherの時間観は、彼自身の存在の意味を反映すると考えられる。ヨーロッパに来たStretherは、物質文明の進歩に貢献し、ひたすら未来に向かうというアメリカでの人々の時間観と、過去の伝統を大切にするヨーロッパでの人々の時間観の違いを感じ取る。そしてChadとMadame de Vionnetの関係はStretherが経験する異種の時間の出会いの意味を体現する。異種の時間観、そして異種の文化の狭間をさまようStretherにとっての「生」と「現在」という時間の意味が浮き彫りにされていく。Stretherは既存の時間観からの離脱者として
独自の時間観を持つことになり、彼の時間観には新旧両大陸の文化の新たな関わり合いの意味を追究するJamesの姿勢もまた重なることを明らかにしていく。
第九章ではThe Wings of the
Dove (1902)を取り上げる。Millyは善良で、アメリカの理想や道徳観を体現する人物であるとしばしば解釈されてきた。例えばOscar Cargill は“her action...is as noble as it is intelligent” (Cargil1 361)と考える。彼女は彼女の財産を狙うKate CroyやMarton Densherの策略に気付き、そのことに傷つきながらも、卑しい利害意識を超越するような寛大さによって自分を欺いた二人に財産を残す。そして二人が体現する人間悪が、Millyの純粋さと対照的にクローズアップされるというのが、数多い先行研究における伝統的な解釈と考えられる。
しかしこの章では、彼女は因習にとらわれない自由で力強い生き方が出来、イギリス人達の仕掛けた策略を完全に打ち砕く生命力を備えている点に注目し、文化の体現者としての彼女の意義に焦点を当てる。彼女はニューヨ−クのプリンセスに喩えられるが、もともとニューヨークは雑多な民族や文化が
混在する町であり、彼女はそのハイブリッドなパワーを体現する人物であると解釈することが出来る。異文化であるイギリス社会の価値観を脅かすMillyの威力に注目することにより、彼女が体現する異文化における「文化的外部者」の価値観も浮かび上がる。イギリス人達の策略を挫き、それを上回るしたたかな生命力を備えるMillyが体現するものは、もはやアメリカ文化の浅薄さや純粋な善良さだけではないことに言及しつつ、
「王女」であると描写されるMillyのイメージに重なる帝国主義的なアメリカの一側面を明らかにしていく。
第十章ではThe Golden Bowl (1904)を取り上げる。“innocent”なアメリカ人のヒロインとして登場するMaggieは、自分の生活が含む問題に対しても“innocent”であったが、彼女がそこに潜む人間悪の存在を知り、それを排除することを決めたことにより、彼女は“innocence”を放棄する必要に迫られる。Maggieは二組の夫婦間に生じた不義を、結婚の破綻を招くことなく解消することに成功する。自在に周囲の人間関係を操作できるMaggieが結末においてなお不安と恐怖を感じているため、先行研究においては、この作品が、ヒロインの外面的な成功とは裏腹にJamesのどの作品よりも先行きが暗いと解釈されることもある。例えばRuth Bernard Yeazellは結末においてMaggieとその夫のAmerigoが抱擁する場面について“... in this impassioned declaration of
love we may also hear a confession of failure− and the sigh of an irremediable division between
husband and wife” (Yeazell
125)と述べる。そこでこの章では、無垢と経験の狭間で揺れ動き、価値観の選択に迫られるMaggieの変化を、この作品における“innocence”の意味に注目することにより考察する。するとMaggieの経験は、一方的な彼女の成功の物語ではあり得なく、彼女が独自の信念に従って捨てがたい価値観を放棄していく内面のドラマとして読み解くことができる。
Maggieの選択には、一つの安定性を保った価値体系の終焉と、新たな現実にいかに接し一つの現実感を創造するかというJamesの試みの片鱗が重なることを示唆していく。
結論では、ヨーロッパ文化に対してもアメリカ文化に対しても、その「外部者」であることを自ら感じていたJamesが、生涯自分のアイデンティティーについてこだわりつつ思索を深め、それを作品の中でドラマ化しながら追究し続けていった点に注目する。“The American Scene” (1905)においては、 Jamesがアメリカの未来を
危惧する様子が読み取れ、彼のアメリカ観やアイデンティティーのよりどころは変化していくことが分かる。Jamesおよびその登場人物たちは文化の「外部者」としての立場に備わる可能性を追求していたと言える。社会集団の「外部者」としての立場に備わる可能性については、先行研究では、二つの視点、すなわち、自由、解放、客観性を見出す視点、そして、不安、
苦痛、差別を見出す否定的な視点が示唆される。本論文ではこのような二種類の視点を援用しつつ、結局は文化の「外部者」であることに積極的な意味合いを見出していくJamesの姿勢を強調する。Jamesのとらえた「文化的外部者」の立場にも、このようなプラス点やマイナス点が存在していると考えられる。作品の中で、ある文化や価値観からの「外部者」となった人物達は共通して孤独を経験し、その中で自分のアイデンティティーを見つけ出していく。彼らが自らのアイデンティティーを追求するエネルギ−は、個人的には自分の限界を取り除く力になり、また時にはアメリカ文化を発展させていく力にもなっている。価値観の境界線上に立たされた人物達は新しい世界観の創出者としての役割を担い続け、国籍離脱者として、またコスモポリタンとしての意義を追求したJamesのメッセージを伝え続けていることを述べ、結びとする。
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